リスクの認知について、感じたことメモ
2011.12.07 Wed
すべての人は、おおまかに2種類の思考システムを持っているらしい。
1つは、感情、直観、連想的。分析はラフだけど、答えが出るまでが早い思考。物語や個別事象に注目することで、リアリティを感じる。要は、足りない情報を連想して補完する。連想は「先入観」だと言えば聞こえは悪いが、実際は、経験に基づくひとつの分析で。スピード重視ならば、ある意味、積極的に活用して当然なのだろう。
もう1つは、答えがでるのは遅いのだけど、わりと精密な答えを導く思考。意識的な分析、論理に基づく判断、計算したり、情報を整理したりするプロセス。ここでは、勝手な連想を排除し、手に入ったデータから存在し得るすべての可能性を検討することが求められるだろう。「まだ答えは出せない」という答えすら、正確な分析に基づくならば、ひとつの価値となる。
で、一般的には前者で判断する人が多く、研究者とかは後者で判断する人が多いって話なのだ。
誤解のないように補うと、別に後者が正確だから優れているというわけじゃない。社会的な判断の基盤となるデータは、じっくり分析して整理するべきかもしれないが、そこから行動し、社会を動かすには前者の思考も不可欠。
研究者だって、統計で結婚相手を決めるわけじゃないし。一般の人も、高い買い物では慎重になるだろう。2つは優劣ではなく、バランス。日頃の習慣が原因か知らないが、放射能汚染のリスク判断の際に、どちらの態度を取りやすいかという意味で、一般的には前者。学者は後者の思考が多いらしい。
くどいけど、優劣じゃない。たとえば、「原発止めるかどうか5分以内に決めろ」と迫られたら、日頃から直感的思考を鍛えている人のほうが良いジャッジをできるかもしれない。問題は、ここのギャップを自認しておかないと、全然コミュニケーションがうまくいかないという点にある。
ありがちなのは、研究者の人がデータを提示して、「ほら、これを見て考えればぼくと同じ結論になるはずだよ」と思ってしまうこと。同じデータを見ても、思考モードが違うと、解釈は全然違っちゃう。それはたぶん、頭の中で勝手に補っている情報、先入観とか前提条件、その根本がすでに違っているのだろう。
それでも対話ならいい。顔を見て話しているうちに、互いにいくらか同調していくから。放射線に関する講演とか出ると、参加者のママさんらは少し冷静になるし、講演者は相手の動揺や心配の深さに触れ、問題を別角度から再認識する場合もある。直接会うことの効果は、やはりすごい。
でも、ただ活字の一方通行となるとどうか。どうやってギャップを埋めていけるか。本を作るうえでは、ここをよくよく悩んでおきたい。






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